カテゴリー「食育」の22件の投稿

2009年7月21日 (火)

第10回村井弦斎まつり

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始まって10年目になる村井弦斎まつり、今年は9月26日(土)例年どおり平塚市村井弦斎公園で開催とのこと。

こちらのサイトでわかった
このサイトまだ更新途中で、内容の紹介は去年のままだが日時が発表されている。

明治後期に10万部という当時破格のベストセラー小説「食道楽」の著者村井弦斎については、このブログで過去に11回書いている。
食育のカテゴリー食のリスクのカテゴリーにある。

食育のルーツを尋ねてみて、こんな偉人の先駆者が居たことを知った。
黒岩比佐子さんの労作「『食道楽』の人 村井弦斎」などでよくわかった。

私が渡辺武先生から教わった日本人に合った正しい食養生にそった内容が多い。
特に五味調和を重要視している点がうれしい。
文明開化、西洋医学・栄養学導入にまっしぐらの世に居て、それを学びながらも伝統的日本人の食文化の良さを忘れていない賢明さに敬意。

村井弦斎祭りについては、平塚市のサイトで、

村井弦斎は、明治37年から64歳で没する昭和2年まで、村井弦斎公園を中心とした地に屋敷を構えました。弦斎邸には各界の著名人が集い、一流の料理や邦楽の演奏などを楽しみました。「20世紀の予言者・食文化のパイオニア・実用小説家」であり、平成18年3月、食育推進基本法計画が策定されましたが、ベストセラーになった有名な「食道楽」の中で、百年前に「食育論」を説いた著者でもあります。「小児には徳育より知育より体育よりも食育が先き」と歌もつくっています。(詳しくはこちら MS-Word 1,167KB

毎年、村井弦斎の事績を讃え『食道楽』にちなんだ料理の試作・販売や弦斎の生活状況の一端を再現した「村井弦斎まつり」を開催しています。

と紹介している。

昨年は10月4日(土)で、仕事を休んで出かけた。
村井弦斎まつりに行ってきました
村井弦斎まつりに行ってきました(2)

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2009年7月 7日 (火)

親の15%幼児にサプリ 過剰摂取有害の恐れ

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リンク: 親の15%が幼児にサプリ 過剰摂取「有害の恐れ」 - 47NEWS(よんななニュース).

 幼稚園や保育所に通わせている保護者の15%が、ビタミンなど特定の成分を濃縮した健康食品のサプリメントを、子どもに与えていることが6日、国立健康・栄養研究所(東京)が初めて実施した調査で分かった。

 保護者の6割は「栄養補給」が利用目的と回答。食生活に何らかの改善が必要と感じて、サプリに頼る実態が浮かんだ。

 研究所は、幼児への有効性や安全性など検証したデータは乏しいとし「身体に必要な成分でも安易に与え続けると過剰摂取につながり、幼児に有害な作用が出る恐れがある」と注意喚起している。

 調査は2007年5月から9月に青森、山形、茨城、栃木、埼玉、千葉、香川の7県の幼稚園や保育所計21カ所で実施。子どもの年齢は6歳までで、保護者2125人のうち1533人から回答を得た。

 結果によると、口の中で溶ける錠剤や粉末、カプセルなどのサプリを、15%に当たる228人が子どものため利用したことがあると答えた。

 利用者のうち68%の154人が「ビタミンやミネラルのみ与えている」と回答。32%の74人は「そのほかも利用」と答え、33人は、脳の発達に良いなどと宣伝されるドコサヘキサエン酸(DHA)を含有する魚油系のサプリを利用。次いでプロテイン、キシリトールが各7人、ハーブが6人などだった。

 利用目的(複数回答)では「栄養補給」が140人で最多。「健康増進」58人、「病気予防」42人、「体質改善」27人と続いた。また106人が「たまに利用」と回答。「以前に利用」が90人、「毎日利用」は32人いた。
2009/07/06 08:22   【共同通信】

子を思う親心は美しいものではありますが。
化学的・人工的な処理を加えていない天然の形の食材・食事が一番安全で体によいことは誰もがわかっているはず。
商品のPRに心動かされて、更にサプリを加えればもっと良い効果が生まれると思ってしまうのでしょう。
でも、サプリには適量と適性があります。
それをよく勉強して使わないと無駄になったり、悪くすると害になることもあります。
それには、独立行政法人国立健康栄養研究所のサイトが役に立ちます。
たくさんのサプリの情報が見られます。

でももっともっと大切なことは、過去ログのこれ。
小児体質改善のポイント。
子育て中のお母さん、参考になさって下さい。

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2009年6月 1日 (月)

現代食生活の実態(2)

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岩村暢子さんの報告関連の続きです。

数年前の記事ですがネットで見られます。

酒文化研究所のサイト。
酒文化論考集 「変わる食卓・消えた晩酌」
岩村暢子 (株式会社アサツーディーケイ)

失われた家庭の伝承力
-食など生活の基本的な躾は家庭で教えるものと考えられてきましたから、それが揺らいでいることを無視して学校教育が家庭科を軽視した結果というふうにも見えますね。
岩村 「学校教育が」というよりは、社会や経済の要請のほうが強かったのではないしょうか。
 当時の家庭、親だって変化していたのです。1960年以降、家庭にはいままでなかったような加工調味料がたくさん入ってきて、家庭の食卓を変えてきました。だから彼女たちの母親世代も、いままで作ったこともないようなメニューを作り始めたわけです。それらをどんどん取り入れることが「豊かな食卓」だと皆が思った時代ではないでしょうか。麻婆豆腐やクリームシチューの素、サラダドレッシングやスパゲティソースなんかも、それ以前にはほとんど使われていなかったものです。お母さんたちだって、おばあちゃんから習っていたものではありません。加工品、加工調味料を「買う」ことで、新しい家庭メニューを取り込んでいったわけです。
 そのせいだけでもありませんが、この母親世代は、娘たちへ自分の味や家庭料理を伝承することに積極的ではないんです。「私のやり方なんか覚えるより、きちんとしたところで習ってきなさい」と言う母親が多い。あるいは「結婚したらどうせやらなければならないんだからいまはしなくていい」「手伝いより勉強していなさい」と言って教えてもらえなかったケースも珍しくありません。
 結婚して子供連れで実家に帰っても、お客さんになって「手伝いません」という主婦がたくさん調査には出てきます。だから、伝承といっても、一緒に台所にたって習おうとする姿が見られない。「せっかく来たんだから、お母さんのあれ、作って」という関係ですね。

続きはこちらから

未来経済研究室のサイト

The World Compass(三井物産戦略研究所機関誌)
2003年10月号掲載

特集 「食」の現場から
食卓が語る日本の現在(インタビュー&構成)
岩村暢子氏(アサツー ディ・ケイ第二営業総括 200Xファミリーデザインルーム長)

1.浮かび上がった「60年生まれ」の断層

小村
 『変わる家族変わる食卓』、たいへん興味深く読ませていただきました。調査結果はもちろんですが、調査の手法や過程についても学ぶべき点が多いと感じていまして、今日はまず「食DRIVE」の調査を始められた背景とか狙いといったあたりからお話しいただけますでしょうか。

岩村 1993、4年ころのことですが、ファミリー層を対象とした市場調査の結果をベースにした商品開発やプロモーションが、家電、食品、トイレタリー、子育て関係、レジャーなど、いろいろな商品分野で、思うような成果を生まなくなってきたのです。例えば、簡便指向は調査対象の90%が支持しているのに、なぜかその簡便商品が受けないというような現象が、90年代の前半に次々と出てきました。
 通常の市場調査では、対象を年齢階層とか職業別といった属性別に見ていくケースが多いんですが、その手法ではどうしてもうまくいかなくなってきた。そういう背景があって、その当時ファミリー層に入ってきた人たちを中心に、生育史研究を始めたんです。何歳のときにどんな事があって、どういう影響を受けたか、ヒットしたお菓子やオモチャの発売、流行ったファッションや音楽、家庭の教育観から学校教育の指導要領まで含めてすべて、もう一回なぞり直して、その後の価値観の形成などにどのような影響があったのだろうかということを調べてみたわけです。
 その結果浮かび上がってきたのが、生まれ年で1960年というところに、大きな断層があるということでした。60年以降に生まれた人々の価値観や言葉の使い方は、それ以前に生まれた人々と大きく違っている。例えば、メーカーが60年以前生まれの感覚で「簡便」だと思って作った商品が、60年以降生まれの人には「そんなトロい商品のどこが簡便なんだ」と思われていたりする。あるいは「本格的なものを指向しますか?」なんてアンケートで聞いて、その結果をもとに「本格」指向の施策を打ってみても、上の世代が思っている「本格」と、20代、30代の人が思っている「本格」というのが全然意味が違っているので、うまくいかない。同じ言葉でも、その意味とか価値観に食い違いが生じてきていたわけです。

続きはこちらから

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2009年5月30日 (土)

現代食生活の実態

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昨日の記事に関連した現代食生活事情がテーマ。

毎日新聞・平成18年7月9日の記事から抜粋。

「現代食生活の実態」(家庭の食生活を調査している岩村暢子さんに聞く)

一昔までは当たり前の習慣だった1日3回の食事。だが、最近は朝食を摂らない家庭も増えているようだ。

面接で聞き出した本音からは「自分の気持」を優先する親の姿が見えてくる。

思い当たることはないだろうか?

親自身にきちんと朝食を食べる習慣がない。

 子どもしか食べない朝食なら、出すだけの菓子パンやヨーグルト、野菜ジュースなどは便利なんですね。

 子どもは家族で毎朝食べて育って、「朝食を食べる」習慣を身につけます。物心ついたときから親がきちんと食べていないのに、1人だけ食べろと言われても無理です。それなのに、「うちの子は食が細い」とか「食べたがらない」と言う。

 「食事は自己申告制」という家族もあります。

大人同士ならありうるけど、「食べたいと言われなければ時間になっても子どもに夕食を用意しない親もいます。

「食べたいとも言わないのに無理に食べさせるわけにはいかない」と言います。

 一見子どもの意思を尊重しているように見えて、実は子どもの健康をないがしろにしていると思います。

「子どもと一緒に食べたくない」と言う親が増えて気になっています。

「いつも子どもと食べるのはうっとうしい」

「子どもにちゃんと食べなさいというのは、私にパワーがいる」

「いちいち言って食べさせるのは私が疲れる」

だから、子どもに先に食事させて、自分は後でゆっくり食べたいと言うんです。毎日、朝食を一緒に食べている親はほとんどいませんよ。

夕食も夫と交代制で子どもと食べるという人さえいます。

 親たちは「孤食」という言葉が使われ出した81年ごろに小、中学生だった世代です。

当時の子ども達は、塾などの理由で仕方なく「孤食」でしたが、その弧食育ちの子どもたちがいま親となって「一人でゆっくり食べたい」と言うようになっている。

「こしょく」には、「孤食」と「個食」があって、
「孤食」は、食卓に着くのが一人、一人で食事をするということ、
「個食」は、自分だけの食事内容・メニューということのよう。

岩村暢子氏の調査では、昭和36年生れを境にして食に対する姿勢が変わるという結果が出ているという。

岩村暢子氏のプロフィールはウイキペディアにある。

著作に

  • 「普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓」(新潮社、2007年10月)
  • 「変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識」(勁草書房、2003年4月)
  • 「現代家族”の誕生―幻想系家族論の死」(勁草書房、2005年6月)

などがある。

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2009年5月29日 (金)

親の怠惰で児童が肥満 不規則な生活、手抜き食事

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現代の一般家庭の食生活の実態に関するニュース。

【こども】親の怠惰で児童が肥満 不規則な生活、手抜き食事…改善を (1/2ページ) - MSN産経ニュース.

 小学生の肥満が増えている背景に、親自身の生活習慣の乱れが原因となっている実態がある。みそ汁や骨付きの魚が食卓に上る機会がほとんどないなど食事に手を抜いたり、夜遅くまでテレビを見ていて朝起きられない大人の怠惰な生活態度が、子供の成長に影響を及ぼしている。まずは、親自身が規則正しい生活を取り戻すことが急務だ。(中島幸恵)

朝食は菓子パン

 新学期が始まって間もない4月下旬、千葉県内の小学校で身体検査を担当していた養護教諭(56)は、ある変化に気付いた。6学年各3クラスの約2割の児童に肥満が目立つ。

 平均体重より10キロ近く多い37キロの3年生の女児(9)に養護教諭が家でどのような食事をしているか聞いたところ、「ご飯は味がないから(菓子)パンをよく食べる。お母さんも私もみそ汁のにおいが嫌いなので飲まない。骨付きの魚が食卓に出されたことは一度もない」と返ってきた。

 女児によると、家族4人で夜遅くまでテレビを見たりゲームをしたりすることが多く、母親は朝起きることができない。女児は朝食を抜きがちで、パンや冷凍食品で済ませているという。養護教諭は「親として暮らしの基本ができていない大人が増えた」と嘆く。

だらだら食べ

 「肥満児の多くは親の生活習慣を受け継いでいる。まずは親自身が生活習慣を根本から見直し、家族みんなで改善に取り組みながら子供の成長をサポートすることが大切」

 こう話すのは、ベストセラー「やせないのには理由(わけ)がある」で知られる大川クリニック(東京・池袋)の大川隆裕院長。大川院長は「子供の肥満の原因は親にも責任がある」として、食事内容や生活習慣の見直しを指導している。

 何となく夜遅くまでテレビを見ていて、朝起きられない。みそ汁や骨の付いた魚が食卓に上らない。市販の総菜や加工食品で済ませたり、堅いものをよくかんで食べさせたりすることをしない。「ストレス解消」と言い訳して、だらだらと食べ物を口にするなど親自身が怠惰な生活をしていないだろうか。

 大川院長は「早起きして1日3食、和食を中心にバランスよく食べることに尽きる」と言い切る。そして、「家族みんなで食卓を囲み、休日も早起きして体を動かすなど率先して取り組んでほしい」とアドバイスする。

男女とも1割近くが肥満

 文部科学省の平成20年度学校保健統計調査によると、肥満児の出現率は男子が9~17歳で10パーセントを超え、女子は10~13歳で10パーセント近くに上る。

 肥満化傾向にある子供は将来、糖尿病などの生活習慣病の予備軍ともいわれる。しかし、内臓脂肪型肥満も多く、見た目には分かりにくい、いわゆる「隠れ肥満」のケースもあることから、関係者の間では「実態より深刻ではないか」との指摘もある。

家庭の食卓に関しては、長年にわたり調査している岩村暢子さんの興味深い報告があるのをご存知でしょうか。
次回のエントリーで書きます。

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2009年3月31日 (火)

スローフード 高まる関心 10月には国際規模のイベント開催

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スローフード 高まる関心 10月には国際規模のイベント開催 (1/2ページ) - MSN産経ニュース.

イタリアで1986年に始まり、世界的に広がっているスローフード。日本でも最近、食の安全につながるとして、手間ひまかけた食材や郷土料理に関心が高まっている。10月には、日本で初めてとなる国際規模のイベント「スローフードニッポン2009」が開催され、日本の各地に根付く食文化が紹介される。(猪谷千香)

失われる食文化

 スローフードは、ファストフードに代表されるような画一的な食に対する危機感から、伝統的な食文化を再発見し、豊かで多様な生活を取り戻すための運動だ。運動の旗振り役は国際組織「スローフードインターナショナル」(イタリア)。現在、世界132カ国に組織が広がり、8万5000人以上の会員を持つ。

 国内には、NPO法人「スローフードジャパン」(仙台市)が中心となり、51支部(会員数2100人)がある。今回のワークショップは、支部の一つ「スローフード・セントラルイースト東京」と東京ガスが共催した。

 一方、同NPOは、国内で日本の生産者による食材を集めたイベント「スローフードフェア」を平成16年から毎年、開催している。今年は、アジアでスローフードを発展させたいという狙いから、運動の発祥地、イタリア以外では初となる国際イベントを開く。

 国際イベントは今年10月23日から3日間にわたり、横浜市のパシフィコ横浜をメーン会場に、「日本各地の“地域食”を応援する」をテーマに開催。地元の生産者や食品加工会社が出展するほか、郷土料理店による食堂などが開設される。

 スローフードインターナショナルのパオロ・ディ・クローチェ事務局長は「豊かな食文化を持つ日本ですが、ファストフードによってそれが失われつつある。食に対する意識を変えられるよう、イベントに期待したい」と話している。

10月に開催のスローフードニッポン2009のサイトは
http://slowfoodnippon.com/

漢方なブログの食育関連エントリーもどうぞ。

http://blogmasaki-ph.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-86f0.html

http://blogmasaki-ph.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-adbc.html

http://blogmasaki-ph.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-eb65.html

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2008年10月 6日 (月)

村井弦斎まつりに行ってきました(2)

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第9回村井弦斎まつりの続きです。

野点をやっていました。
椅子席でいただくお茶のことを立礼(りゅうれい)というのを知りました。
天気が良かったので幸いでした。P1000310
お菓子は弦斎羊羹(菓子司・杵若)。
100円で楽しませてもらいました。

弦斎の本がたくさん展示されていました。
明治時代の食道楽は、中の絵がカラーで色鮮やか。
版画らしい。
小林美和子さんというライターの蔵書で、P1000327 P1000322
販売もしていました。
とても珍しい古書が集められていました。

クイズがありました。
弦斎に関する3問。
なかなか難問。
正解者には景品が出ます。
正解して、松鱗亭の胡桃飴をもらいました。
これもまたラッキー。P1000308_2

弦斎の業績を写真を使って
説明しているパネルです。

弦斎ゆかりの品物色々販売していました。
食道楽ゆかりの弁当、料理、お菓子など。P1000311

栂の木のまな板がありました。
弦斎の焼印つき。
丁度まな板必要だったので、
記念に一つ求めました。P1000340_3
一枚千円。
弦斎とのつながりは聞きそびれてしまいました。
他に、弦斎しらすと弦斎豆(南京豆)も。

この祭りは来年が区切りの第10回です。

継続して栄えてくれることを祈りながら帰路につきました。

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2008年10月 5日 (日)

村井弦斎まつりに行ってきました

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きのう10月4日(土)、第9回村井弦斎まつりに行ってきました。

初めて降りた平塚駅。天気はほぼ快晴。

微かに潮のかおりがし、空気がとても落ち着いていて気持ちのよい街。

海が遠くないことがわかります。P1000306_2

5分歩くかぐらいで会場の村井弦斎公園に到着。 

かつて村井弦斎の邸宅があった場所。

1万6千4百坪の敷地だったといいますから東京ドームの4倍くらいの広さになるのでしょうか。

今の公園は数百坪でしょうから、数十倍の敷地と考えると、当時の壮大さが浮かびます。
その資金は「食道楽」の印税からと考えると、いかに「食道楽」が人気絶大で庶民に好かれたかがわかります。

入場すると、琴の音が聞こえてきました。 P1000309
舞台が設えてあって、琴と尺八の演奏が明治的な雰囲気をつくっています。

受付で、アンケートに答えると、くじ引きをさせてもらえました。
なんと、「弦斎カレーパン」が2個あたりでした。
ラッキー!
このカレーパンはうまい!
今まで食べた中で一番。

P1000316

弦斎料理教室のコーナーでは、鮎のフェタスという料理がありました。
食道楽秋の巻第194章に出てくる料理の再現。P1000317_2
フェタスとはフリッターのことらしい。

食道楽秋の巻、鮎がテーマの第185章・鮎の味では、

全体鮎は川によって違います。
玉川の鮎よりは相模川の鮎が上等ですし、相模川の鮎よりは酒匂川の鮎が一層勝っています。
また同じ川でも場所によって味が違います。
一口に玉川の鮎が不味いといいますけれども羽村の堰から上になると鼻曲がり鮎と申して味もなかなか好くなります。
酒匂川の鮎も本流よりは河内川の支流で漁れた鮎が美味しゅうございます。
何故場所によって味が違うというのに鮎の食物たる珪藻の種類が違いまたその多い処と少ない処とで違うからです。

と解説しています。
平塚あたりの鮎はさぞかし美味かったのでしょう。P1000318_2

鮎を鶏のささ身に変えたものの試食ができました。
たくさんテーブルに並んでいます。
これも上手に調理されていて美味かった。

つづく

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2008年9月30日 (火)

第9回村井弦斎まつり

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第9回村井弦斎まつりが10月4日平塚市で開催されます。

案内はこちらのサイトにあります。

食育の先駆者、村井弦斎については、この漢方なブログでも、食育のカテゴリー食のリスクのカテゴリーで何回もエントリーしています。

当ブログでは、大ブームを巻き起こしたベストセラー小説「食道楽」が世に出た頃までを紹介しました。

その後の村井弦斎は、印税で巨万の富を手にし、神奈川県平塚市に1万6千4百坪という広大な土地を購入し食を探求する道を突き進みます。

ここの生活を黒岩比佐子さんは食道楽(上)で解説しています。

彼は富士の高嶺を望む神奈川県平塚市に一万六千四百坪の広大な土地を購入し、あたかもユートピアのような生活を始めるのである。

弦斎は家屋より庭の方に力を入れ、野菜園、果樹園、草花園、促成園(温室)、鶏舎、ウサキ舎、山羊舎、厩舎、などを設け、畑では伝統的な農作物はもちろん、パセリ、レタス、セロリ、アスパラガス、トマト、アーティーチョ-ク、など珍しい西洋野菜もつくった。
果樹園では桃、柿、枇杷、無花果、梅、柘榴、などを栽培し、鶏舎では様々な品種のニワトリを飼育した。
また、子供たちに乗馬をさせるために馬を飼い、鉄棒や遊動円木やブランコを設置した運動場を設け、ネットを張ってテニスもしていたらしい。
弦斎は『食道楽』で提唱した理想の家庭生活を、自ら実践しようと考えていたのだろう。

その後、弦斎は脚気予防の糠と玄米の研究、難病の食物療法にのめりこんでいきます。
断食や木食を実践したり、御岳山山中で竪穴式住居の暮らしを試みたりもしています。
黒岩比佐子さんは、「それは、仙人のように暮らす奇人イメージを人々に植えつけることになった」と書いています。

その後、体調を崩した弦斎は、断食療法などを試みるも衰弱し、昭和2年(1927年)7月30日に63歳で死去しました。
「薬をまったく受けつけず、親しい友人や親戚の見舞いも謝絶して、孤独の中で病気と闘う道を選び、最後まで頑固に自分の信念を貫き通した一生だった。」とあります。

村井弦斎まつりについては、サイト上で、

村井弦斎まつりは、明治時代に、平塚の南側に広大な敷地をかまえた文化人「村井弦斎」をしのび、平成11年から始まりました。弦斎の敷地後である「村井弦斎公園」で、弦斎が好んだ筝、尺八、野点、「弦斎の会」による弦斎の著「食道楽」のレシピ再現、また、弦斎の写真や書物を展示など、さまざまな趣向を凝らし、来場者の方々に楽しんでいただいております。
また、数多くの協賛をいただいている弦斎クイズ、抽選会は、ご好評をいただいております。
村井弦斎まつりは、平塚市、弦斎の会、三曲連盟、平塚茶道協会、平塚市食生活改善推進団体(ママの会)、周辺周辺自治会など、多くの団体、個人で構成した村井弦斎まつり実行委員会によって運営されています。

と紹介しています。

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2008年9月28日 (日)

食のたからもの再発見プロジェクト写真展(2)

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食のたからもの再発見プロジェクト写真展と聴講したオープニングレクチャーの続きです。

今回のレクチャーの講師は、「スローフードな人生!(新潮社)」の作者、島村菜津さんでした。
初めてお目にかかる島村さんはとても魅力的な方でした。
そして90分の講演は、思わず引き込まれてしまう素晴らしいものでした。
今回の企画で東京財団のこのプロジェクトを知り、ネット上に公開されている報告を読みました。
今回の講演に限らず、食のたからもの取材レポートは、素晴らしいレポートのオンパレードです。
普通のメディアで日常よく見聞きする、それなりにおもしろい旅やグルメのレポートとは質が違うのです。何が違うのでしょうか。
それは、取材対象の人物が魅力に溢れた人たちである上に、その描写や報告がその魅力を深く掘り起こして伝えているからなのだと思います。
取材する人の視点、眼力、感受性、そして表現力といったものがまるで違うと感じるのです。
仕事の時間を割いて聞きに来た甲斐がありました。

焼畑かぶの紹介のほかに、存亡の危機の瀕している地大豆の普及に腐心している豆問屋経営者の山口博氏(東京練馬)に島村氏がインタビューするという形式をとったディスカッションが30分ありました。

大豆はもともと黒船来航のペリーが日本から持ち帰ったもので、今やそのアメリカが世界最大の生産国となり、最大の輸入国が日本です。
遺伝子組み換え大豆はアメリカ作付面積の8割を超えているといいいます。

大豆のエネルギーベースの自給率は5%。

昔、東京に3500軒あった大豆問屋が今は、900軒。

大豆の輸入量は、500万トン(飼料、油用を含め)

今年の国産大豆の生産予想量は、20万トン。

食用に関しては、国産大豆は、20%まかなえている。

その95%は豆腐製造メーカ向けだそうです。

吉田氏はアメリカから非遺伝子組み換え大豆を輸入している。
米国の契約してくれる農家を自分で見つけ出し契約した。

一般の大豆は、特性として、高蛋白のものは低脂肪、高脂肪のものは低蛋白がふつう。
日本の地大豆は、高蛋白で高脂肪という栄養価的に秀でた特徴を持っている。

などから始まり、地大豆振興の取り組み、活動の興味深い話が続きました。

大豆レボリューションと名付けた活動をしている、NPO法人「トージバ」というのがあることを知りました。
10月19日には日比谷公園で、種まき大作戦というイベントを開催するそうです。

講演終了後に、地大豆で作った豆腐の試食をさせてもらいました。
P1000299 池袋の大桃豆腐というお店の製造で、大豆と天然ニガリだけで無添加。
しょう油も生姜もなしで味わうと、豆腐の素の味がわかります。
甘味がちがう絶品。

写真は、試食品が並ぶテーブル。

その他、茨城県産・国産小麦粉、国産菜種油などの展示販売がありました。

菜種油の自給率は、なんと、0.03%ということです。

「食べ支える」ことの意味を感じ取りました。

1缶買い求めました。貧者の一灯?。

大豆は重要な漢方薬でもあります。
漢方薬としての名前は、香鼓(こうし)といいます。
桑の葉に黒大豆を詰めてつくる干し納豆。
浜納豆や大徳寺納豆に似ています。
香鼓は、薬味薬性が甘寒で水剤と規定されています。
汗を発し、中を整え、煩を除く作用があり、山梔子(さんしし=くちなし)と組み合わせた梔子鼓湯(しししとう)という名方があります。

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2008年9月26日 (金)

食のたからもの再発見プロジェクト写真展

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昨夕、食のたからもの再発見プロジェクト写真展に行き、オープニングレクチャーを聴講してきました。

240㌢の高さの展示バナーが20個あまり並び、とち餅、フナ寿司などの生産現場が写真入りで紹介されていました。
食品類は、シンクタンク、東京財団のサイト、こちらにくわしく紹介されているものです。

このプロジェクトは、日本各地で何百年、何千年も前から育まれ、培われ、連綿と受け継がれてきた、古人の知恵、大切な食文化が、日本のあちこちで消滅の危機に瀕していることを、国の正しい繁栄にとって憂うべきことと捉え、大きな危機感を抱くことから生まれているのだと理解しました。
その趣旨は、上のサイトに記されています。

レクチャーは、調査・報告が終わっているの23件の食品から、新潟県山北町の山熊田地区の焼畑かぶが取り上げられ紹介されました。

焼畑農業は南アジアやアフリカのもので日本にはないと思っていました。
ところが、日本では数百年前から続き、今ではごくわずかの地域の残る焼畑は、環境によくない粗放な農業では全くなく、むしろ持続可能な農業であり森との付き合い方であるといいます。

配布された資料には次のようにありました。

日本の焼畑は数十年のサイクルで、焼いて植え、その後土力が回復するまで休ませ、よい灰ができるだけの緑が育つのを待ってまた焼くというやり方だった。
地域差はあるが30~50年の周期で火入れをする。
妬いた初年度にはそば、翌年には雑穀、土力が落ちてくる3年目には小豆やいもを植えた。
その後は杉を植林し40~50年を経て育った頃ふたたび焼く。
山を育てながら続けていく気の長い農林業なのだ。

山熊田では、19年8月、21件の集落が協力しあい50年ぶりに畑に火入れをした。
22_0_2 先ずは7月中旬、杉などを伐採し下草を刈り、地ごしらえする。
地元の人によればこれが一番の大仕事だという。
翌朝まだ地表がまだ熱いうちにかぶの種を撒く。
種の発芽というと水に浸すイメージが強いが、灰の熱が種の発芽を促すそうだ。

焼畑の火で雑菌や害虫を焼き殺すため、農薬も除草剤も手間もいらずに作物が育つ。
また灰に含まれるカリウムなどのミネラル成分で肥料も水さえも要らない。
それだけではなく育った作物の栄養価も高い。
そして何よりおいしい。
山熊田のかぶを作る人たちが口を揃えて言うには、「焼畑のかぶは色もようでるし、しゃきっと感触もよく、おいしい」のだ。
10月、収穫したかぶは、その日のうちに7人の加工グループによって一気に漬け込まれた。

一度も途絶えることなく続く焼畑を支えるのは、70代を中心とするベテラン層。
都会に暮らすものには気の遠くなるような時間軸の中で、山熊田の人々は自分たちの暮らしを支える森を見つめてきたのである。
持続可能な暮らしのヒントを遠い異国の例に頼るのではなく、焼畑という足元に残る食文化の中に探ってみる方が、ずっと具体的ではないだろうか。

平成17年、高知県の仁淀川町と本川村では30年近く途絶えていた焼畑が復活した。
焼畑によって荒れた山林に手を入れ、焼畑が終わった後に雑木を植えようという試みである。

次の焼畑を行う50年後に、これを引き継げる人たちがどのくらいいるかが問題で心配されるようです。

山北町焼畑体験ツアーというのがあったそうです。
焼畑は50年後で今は無理ですが、色々な体験ができるツアーはできるそうです。
民宿が1件あり、そこを利用しますが、キャパが足りないときは、民泊になるとのこと。

この地区は、しな布という素晴らしい古代織りが継承されているそうです。
しなの木の皮を長時間手をかけて糸にし丹念に織り上げて出来上がります。

山北町商工会のサイトで紹介しています。

焼畑かぶもしな布も初めて知りました。
応援する人が多くなければこの伝承の素晴らしい技術が消滅してしまうわけです。

つづく

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2008年9月23日 (火)

国内のおいしいものを作る人をいかに“食べ支える”か

ふじみ野市 マサキ薬局 の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

食のたからもの再発見プロジェクト」の島村菜津研究員(東京財団)の報告

農村の高齢化や限界集落の問題、自給率の低下といった課題が山積する日本の食の現状について、「食のたからもの再発見プロジェクト」の島村菜津研究員がこれまでの調査で明らかになった点を報告し、生産者を“食べ支える”ことの大切さを訴えます。

注目すべき部分をピックアップしてみます。

前半期の調査の中で、はっきりとわかってきたことがある。
それは、“食の安心安全”や相次ぐ食品スキャンダルに、私たち消費者が不安になる一方で、国内で今、食べ物を作り続ける人々は、その何倍もの不安に晒されているということだ。

取材をした方々から、“高齢化”や“限界集落”といった言葉を幾度となく耳にした。

「農村じゃ、毎日のように葬式だもんな。若い人はなかなか継がないし・・・」

「次に世代には、本当に、誰が食べ物を作っていくんだろうね」。

「8千人の人口は7千人を割り込み、近未来には5千人台となるでしょう。そして、限界集落化していく危うさがあるようです。日本全国過疎地イコール廃墟に向かうのでしょうか。」

平成最大の農地改革といわれた法律によって、4ha以下の小さな農家は、実質補助金を受けられなくなった。
小さな畑や田んぼが基本だった日本の農家は、動揺と怒りを隠し切れない。

近頃、日本では、よく、昭和30年代のチャブ台を囲んでいたころの食生活に戻るのが理想的だといわれる。
今よりずっと海藻や小魚も食べたし、何より米をしっかり食べた。
肉はまだ貴重品だったし、油の消費も少なかった。
自給率も、今では39%だが、これもまだ70%を誇っていた。

だが大切なのは、農家や漁師の暮らしが成立ち、若い人が後を継いでも、きちんと経済的に成り立つことである。

「毎年、11万人の農家が日本から消えています。怠けていたのではない。
がんばって、がんばって、力尽きたのです。
沿岸部では、毎年、1万人以上の漁師が確実にいなくなっている。
このまま、減り続ければ、20年後には、日本の浜には漁師がいなくなるでしょうな。
その時になって、国産の魚がいいなんて無理な贅沢を口にしても、もう遅い」と、長年、東北の村々をめぐってきた憂国の士が強い口調でつぶやくのだった。

だから、私たち食べる側は、やれ「そもそも補助金づけの行政が、農家をダメにした」だの、自分はペットボトルで外国の水を飲みながら、「農薬を一滴も使うな」などと尊大なことを言っている場合ではない、と結城さんは言うのだった。

そして、この食のグローバル化の中で、食べる側にも、作る側にも要求されるのは、大きな意識改革である。

食べ物を与えてくれる自然が、修復不能なまでに傷めつけられてしまえば、元も子もない。
そして、食べ物を作る人がいなくなってしまえば、グルメもへったくれもない。

この調査で、あえて、農業の近代化や遺伝子組み換え技術などの恩恵とは無縁な、少数派の生産者たちを主役に添えたのは、そのためだ。
彼らの人間力は極めて高く、その暮らしには、ちらりと覗いただけでは理解できない英知が詰まっている。
大型機械を使う大規模農業やハイテクを駆使した大型漁業の恩恵に未来がないは言うつもりはない。

ただ環境問題が予想以上の速度で押し寄せてきた今、私たちが学ぶべきは、過去に数百年の単位で続いてきた持続可能な暮らしであり、エネルギーを極端に消費せず、天然資源を枯渇させることもなく、日本の風土に合わせて、おいしいものをつむぎ出してきた人々の技であり、知恵なのだと思う。
そして私たちが、食をめぐるさまざまな報道に翻弄される間も、日本の深い味を支える火地日とは確実に減っている。

食のたからもの再発見プロジェクト・写真展」が開かれます。

2008年9月25日~10月1日(入場無料)
日本財団ビル1Fバウ・ルーム(港区赤坂1‐2‐2)

オープニングレクチャー
「食べ支えよう、食のたからもの」

9月25日18時30分~20時30分
スピーカー
   島村菜津
   山口博
定員:150名(入場無料)

展覧会趣旨

かつて日本各地には土地に伝わる昔ながらの素材や加工品が豊富にありました。
しかし、近年のグローバリゼーションと食流通システムの発展に伴う食の画一化・均一化により、日本の生産者は後継者不足や資金難に直面し、かつてない危機的な状況にあります。
失われつつある日本古来の食文化と、継続的生産が危ぶまれている食材、それを支える生産者や生産地を、わたしたちは「食のたからもの」と呼び、日本各地で取材し、農家や漁師の声とその地域の暮らしを伝えています。
美しい写真に彩られたレポートをご覧いただき、日本の食文化の素晴らしさと、その裏にある農村の高齢化や限界集落の問題、自給率の低下といった課題が山積する日本の食の現状を再認識する機会にしていただければ幸いです。

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2008年7月17日 (木)

食育のルーツ村井弦斎(6)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

『食道楽』に出てくる五味調和さがしの続きです。

第百六章 味の変化

「人の味覚は誰でも時によって変化する。
同じ物を食べても大層美味いと思う時がありさほどに思わないときがある。
料理人が何時でも人の口に合わせようとするのは非常の難事だ。
そこには才覚や気転というものがなければならん。
たとえば僕が一日朝から遠足に出て山野を跋渉して非常に疲労して帰ったと思い給え。
その晩には平成よりも甘いものが食べたくって滅多に食べない羊羹の二片位ペロリと食べる。
それが則ち生理上の必要から起こるので、疲労を医するは糖分に限る。
ー中略ー 
今の場合と反対で一日運動もせず、机に向かって勉強した日は脳を使うために胃の塩酸が少なくなって酢の物が食べたくなるけれども甘いものには閉口する。 
ー中略ー 
家庭料理を掌る人はそんな事まで注意して、今日は日曜日だから甘口の料理を拵えよう、今日は雨が降るから酢の物を多くしようと同じ五味調和する中でもその分量を加減しなければならん。
これも胃の悪い人が遠足すると無闇に喉が渇いて飲み物と酸い物が欲しくなるからそういう人のためには冷した珈琲とかを用意するがいい。 
その外勉強して脳を使う日には身体が蛋白質を需要するから肉類を食べなければならんし、運動して手足を使う日には含水炭素を要するから澱粉質類を食べなければならん。
寒い日には濃厚なものが好し。
暑い日には淡白なものが好し。
冬と夏で食べ物が違い、 朝と晩ともその材料を撰ばねばならん。
晩食に不消化物を多食すると翌朝へ持ち越して心持ちが悪いし、香料の強いものやライスカレーのような刺激物は昼食に用いないと夜になって神経を興奮させる。
-中略ー 
癇癪持ちの良人を持ったら刺撃性の物即ち胡椒や芥子や山葵唐辛子の類を沢山与えないようにしないと食物の刺撃で一層癇癪を増長させる。
そういう人には玉葱だの林檎だのと脳を鎮制させるような食物を多く用いなければならん。
これに反して無性な怠け者を良人に持たら興奮性の食物を択ぶがいい。
海辺に棲む時は酸い物を食べて塩分の刺撃を調和させなければならず、山中に棲む時は塩気の物を食べて身体を養わねばならず、十や十五の発達盛りと五十六十の老人とが同じ食物を摂取しては生理上の原則に負くからね」
とかくの如く論じ来たりなば家庭料理ほどむずかしき者はなし。

陰陽五行論で、味と対応する身体の臓腑、機能との関係から理屈を展開しています。

考えてみると思い当たる事、納得する事があるのではありませんか。

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2008年7月 9日 (水)

食育のルーツ村井弦斎(5)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

『食道楽』に出てくる五味調和さがしの続きです。

第四十二章 カツレツ

五味調和とは関係ないかもしれないカツレツの調理法の部分も面白いので全文引用します。

小山の細君は再び台所に退きてやがて西洋皿に鶏肉のカツレツを盛りて出で来たれり
「中川さん、このカツレツは誠に不出来でおはずかしゅうございますが貴君に一つ本式の料理法を伺いたいと思います、私どもがカツレツを拵えますとどうしても白く出来ませんどういう訳でしょう」と素人のカツレツは往々にこの幣あり。
中川はその肉を試みて思案し「それでは鶏の肉を湯煮ずに直ぐお揚げなさいますか」
妻君「イイエ湯煮ません」
中川「湯煮ないと火が通りません。最初に鶏の肉を三十分ばかり湯煮ておいて、そてを先ず玉子の黄身でくるんで米利堅粉をつけて、モー一度玉子の黄身でくるんで今度はパン粉へ転がして塩と胡椒を撒いてそれをバターなり何なりで揚げるのです。湯煮てありますからザット揚げれば直ぐ出来て赤くも黒くもなりません」
妻君「オヤそうでございますか、良人は鶏の肉が好きで毎度拵えますがいつでも小言を言われます」
中川「小山君は鶏の肉が好きかね、それならば僕が今度君に無類飛切という鶏の肉をご馳走しよう、如何なる金満家も贅沢家もまだ滅多には試みない鶏料理を差し上げよう」
主人「是非願いたい、何という鳥だね」
中川「それはその時に説明しよう。奥さん色々どうもご馳走でした。オヤまだ何か出ますか、ナニ蜜柑の葛掛け、これは妙ですな。山葵の匂いと辛味があっていわゆる五味の調和ですか」
妻君「五味だか何だか分かりませんが、それは先ず塩とお砂糖で濃い葛湯を拵えてそれへ摺った山葵と蜜柑の実ばかりとを入れて掻き混ぜたのです。上等にしますと三寸位の山葵なら一合の沸湯を注いで、固く蓋をしておく事が一時間、そうすると山葵の辛味がすっかりお湯へ出ます。その湯を沸かして葛湯を拵えて蜜柑の外に林檎を小さく切って加えるとようございますけれども急ぎましたから略式に致しました」と当座の御馳走ながら妻君がお登和嬢に笑われマジとて心を籠めたる苦心の料理。
中川も一々賞翫して自分の主張せし五味の調和説が追々行われんとするを悦び「小山君、支那人の五味調和説も段々研究してみると西洋の生理学に暗号しているから妙だね。生理学上で食物を消化するのは五つの液だ。第一が唾液、第二が胃液、第三が膵液、第四が胆汁、第五が腸液さ。その中で唾液と膵液と腸液の三種が米や麦のような澱粉質を消化する。胃液と膵液と腸液との三種が肉類のような蛋白質を消化するし、膵液と胆汁との二種がバターのような脂肪分を消化する。唾液は口から出てアルカリ性だから鹹からい味だし、胃液は酸いし、肝臓から出る胆汁は苦い。膵液と腸液はどんな味だか知らんけれどもとにかく五種の液が消化する処へ五種の味を喫するのは自ら暗合しているね。この原則で見ると肉類は重に胃で消化され穀物は腸で消化されるから日本人のような穀食人種は腸の長さが平均三十尺あって西洋人よりもよっぽど長くかつ太いそうだ」
主人「日本人の中でも大原君の腸なんぞは特別に長くって太いだろう。大原君の太鼓然たるは胃袋が大きいばかりでなく腸も特別大きいのだ。胃腸跋扈して腹中の天地を横領するかなアハハ、時にその大原君はどうしているか、そろそろ出かけてみよう」と客を促して共に大原の下宿へ尋ね行きぬ。

○鶏肉は平均蛋白質壱割八部ないし弐割、脂肪が九分ないし壱割、その余は水分なり。
○鶏肉は屠殺いたるものを直ちに調理しては味悪し。冬ならば三、四日の後、夏ならば一両日の後を可とする。
○鶏その他鳥類の病死せるものあるいは腐敗に近きものは眼の中に水液を含み嘴の中ねばり、羽抜け易くして肛門ゆるみす水気を含む。用ゆる者はよく注意すべし。
○鮮しき鳥は前文の悪兆なく眼の球に光沢あり。
○陸上の鳥類即ち鶏鳩鶉鴫雉の類は消化良し。海鳥即ち雁鴨鵞水鳥の如きは陸鳥に比して消化悪し。

五味調和をここで、こんな風に説いていました。

カツレツつくりの手順はどうなんでしょうか。

肉食民族と菜食民族の腸の長さの違いに着目している点もさすがです。

つづく

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2008年7月 8日 (火)

食育のルーツ村井弦斎(4)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

『食道楽』の中で村井弦斎が五味調和について、どう触れているかをさがします。

ありました。春の巻 第三十四章 五味。 タイトルになっています。

食物を喫するを知りて食物を味わう事を知らざれば共に料理の事を談ずるに足らず。
食物を味わう事を知りて料理の法を知らざれば共に生理の事を談ずるに足らず。
人のこの世に生存するは毎日の食物を摂するがためなり。
食物は生存の大本なるに世人の深く注意せざるは怪しむべし。
この家の主人中川は平生食物論を研究すると見えて頻りに長広舌を揮い
「小山君、モー一つ僕の言うことを聞いてくれ給え、西洋料理にも今のような生理の原則はあるが素人に解り難い。
支那料理の原則たる五味の調和という事は誰にでも応用が出来て自然と化学的作用に適合しているね
即ち料理には必ず甘いと鹹(しおからい)との外に辛いと酸いと苦いという五の味が備わらねばならん。
日本人の食物は多く二味か三味で成立っているが僕の家では注意して必ず五味を調和する。
今差し上げた料理の中にいといのは勿論、胡椒や芥子のいのがあり、梅干や蜜柑のいのがあり、百合や蜜柑の皮のいのがあって、五味になる。
梅干を使わない時は酢の物を拵えるとか百合のない時には款冬のとうとか鮎のウルカとか必ず苦味酸味を膳の上に欠かないのが五味の調和だ。
普通の人の食物は単調単味に過ぎるようだが五つの味が互いに化学作用をすると消化も好し心持も好い
これはどうか世人に勧めたいと思うね」

客「なるほど、それも至極よかろう。・・・」

(以下略)

○支那にては五味を配合する中にも春は酸味を主として夏
 は苦味を交え、秋は辛味を加え、冬は鹹味を多くす。
 甘味は四時通用なり。これも自ずから学理に適いたる養
 生法というべし。
 春は逆上の気ある故に酸味を以て引き下げるなり。夏は
 胃の働き弱る故苦味を用い、秋は気の欝ぐ時故辛味に
 て刺撃し、冬は体温を保つために塩 分を要す。

陰陽五行の理論では、

肝・心・脾・肺・腎の五臓と春夏秋冬土用の季節はそれぞれ、

肝=春 心=夏 脾=土用 肺=秋 腎=冬 に配当されています。

弦斎が(注)で補足しているのは、それぞれの季節は対応する臓器に負担がかかるという原理に基づいています。

五味調和の意味の詳細については、
こちらの図 と、

Gomi2

こちらの説明 http://masaki-ph.com/eating.html を、ご覧下さい。

五味調和は、「何を食べるのが良いのか」だけではなくて、「どう食べるのが良いのか」という設問に対する解答です。これが現在の食育、食養生論で一番かけていることです。
弦斎はこの点でも当を得ていて素晴らしい。

つづく

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2008年7月 7日 (月)

食育のルーツ村井弦斎(3)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

前回の村井弦斎(2)は、神童的な生立ちから食道楽がブームを巻き起こした所まででした。今回は、当時のメディア・新聞業界の状況を黒岩比佐子さんの書籍で調べてみます。詳しくは、『食道楽』の人 村井弦斎食育のススメ食道楽(上)・(下)の解説をお読み下さい。

食道楽が刊行された明治三十年代は、ガスも電気もほとんど普及しておらず、電化製品は勿論氷の冷蔵庫もない時代で、生ものはすぐ腐るし、冷たいビールなんて贅沢だった時代です。煮炊きは竈(かまど)でだし、電話はまだごく一部、自動車はまだない時代です。

新聞も現在とはいろいろな点で違っていました。まず、発行部数がいまとは比較にならないほどわずかです。これは文字を読めない人がいたこととも関係しています。また、明治前期のころまでは、知識階級に読者を限定していた「大新聞(おおしんぶん)」と、一般の庶民を相手にした「小新聞(こしんぶん)」とに分かれていました。

大新聞の記事は政論中心で文章は堅苦しい漢語調、ルビはふられていません。最初は「よみもの」とか「つづきもの」と呼ばれていた小説も載せないのが原則でした。明治初期に、天下国家を論ずる大新聞を代表していたのは、『曙新聞』『東京日日新聞』『朝野新聞』『郵便報知新聞』など。村井弦斎が入社したのは、この、『郵便報知新聞』を発行していた報知社です。

小新聞は大新聞より版型も小さく、価格も安く、人々にとってはより身近なメディアでした。その中で、ニュースにフィクションを加えた「よみもの」や「つづきもの」が掲載されるようになり、これが新聞小説の原型となりました。明治初期の小新聞としては、「読売新聞」「平仮名絵入新聞」「仮名読新聞」はどが挙げられます。「読売新聞」は現在は日本一の部数を誇っていますが、初期は小新聞だったということです。

日清戦争のころになって、大新聞と小新聞が歩み寄るような形で両者の誌面の差がなくなってきて、大新聞が小説を掲載するようになりました。大新聞で初めて小説連載に踏み切ったのが「郵便報知新聞」(明治27年に「報知新聞」と改題)です。当時の報知社社長が、政治小説「経国美談」の著者として知られる矢野龍渓でした。村井弦斎は龍渓にその文才を認められ郵便報知新聞で小説を連載することで小説家の道に入ったわけです。そして食道楽の連載が大ブームを巻き起こし単行本のが大ベストセラーとなっていったのです。

(ここまでは、食育のススメからの引用)

弦斎が活躍した明治二十年代から三十年代半ばの文壇の代表は「紅露逍鴎」、すなわち尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遙、森鴎外だといわれているが、本の売れ行きから見れば、四人合わせても弦斎一人の数分の一に過ぎなかったという。弦斎の『食道楽』は「大衆に読まれる」ことを前提に書かれた小説であり、内田魯庵のような評論家からは痛罵されたが、読者からは大歓迎された。(「食道楽(上)」岩波文庫版解説より)

こんなすごい人気作家がいた事がうそみたいです。しかし現実には、

村井弦斎は、六十三年の生涯で約四十の主要な小説と約二十の短編、その他に多数の随筆や評論を書いたが、いまやその名前はほとんど忘れられている。かろうじて、本書「食道楽」の著者として記憶されているにすぎない、といってもいいだろう。(「食道楽(上)」岩波文庫版解説)

とあるとおりです。私も知りませんでした。

食育のススメのあとがきにはこうあります。

本書を読んでいただければわかると思いますが、村井弦斎が書いた『食道楽』はとにかくおもしろい。おいしい料理を食べる幸せ、未知の味を知ったときの喜びというものが、全編にあふれています。
しかも、文中に具体的なレシピが紹介されているばかりか、料理の薀蓄、食物が身体に与える影響、料理の素材や道具の知識、生活全般の知恵など、読みながら自然に多くのことを学べてしまう。
「家庭生活」の重要性が問われ始めた明治中期に、村井弦斎の『食道楽』は、まさしく日本発の"食育小説"と呼ぶにふさわしいでしょう。
これまでに『食道楽』を何度も読み返してきましたが、読むたびに新たな発見があり、食育基本法がつくられる百年以上も前に、村井弦斎がこうしたユニークな小説を執筆して「食育」を推進していたことに驚かずにはいられません。
しかも彼は『食道楽』以後、断食や木食などの研究に没頭し、あるときは仙人のような生活を試み、自分の身体を実験台にして、文字通り命がけで「食と人間」の関係について究めようとしました。
現在「食」に関するニュースが連日のように社会を騒がせていますが、食の安全に不安を抱く人や、病気を予防する食事や料理法に関心を持つ人は多いと思います。明治という時代になじみのない方々にも、この機会に『食道楽』という小説の魅力を知っていただければ幸いです。

次回は、弦斎が食養生の基本五味調和についてどう述べているかを調べてみます。

つづく

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2008年7月 6日 (日)

食育のルーツ村井弦斎(2)

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食育の先駆者村井弦斎とはどんな人だったのでしょうか。

黒岩比佐子さんの「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)に詳しいので、その記載によってプロフィールを簡単にまとめてみます。

村井弦斎(本名寛 ゆたか)は1863(文久3)年12月18日、三河国吉田藩藩士で漢学者の家系の村井清と妻の勢以(せい)の長男として、豊橋(愛知県)に生まれた。
激動の幕末を経て村井一家三人は寛の学向修行目的で明治5年3月上京する。弦斎7歳の時である。
すぐに小学校に入学するが、学力のレベルがはるかに上を行っていたので半年余りで退学し、駿河台学校に入学しロシア語を学び始めた。その一方で一流の漢学者の許でも学び始めている。
明治6年11月東京外国語学校が開校すると、規定の13歳に満たないにもかかわらず魯語学(ロシア語学)に入学を許された。
最年少だったと思われる寛は、猛勉強の結果、明治11年3月には特待生として寄宿舎入りし、さらに翌年2月には主席になっている。

優秀な成績を収めた寛であったが過度の勉強がたたってか、16歳頃から健康を害して、しばしば学校を休むようになる。
明治14年2月病臥していた寛の父清の許に校長から出頭を求める書状が届く。
そして、卒業の見込みが立たないという理由で、寛の退校が言い渡された。卒業目前にしての事であった。
黒岩比佐子さんは、当時の良く使われた病名の脳病、今でいう欝病だったと推測しています。

日ならずして回復した寛は、北海道、東北地方へ半年にわたる調査旅行に出かける。
その後、明治17年8月に渡米、1年余り滞在して見聞を広め、明治18年9月無事に帰国する。

帰国後弦斎は報知社社長・矢野龍渓にその見識を見込まれて明治21年、報知社に入社する。
龍渓は「弦斎」という筆名の名付け親であると同時に、新聞小説家・村井弦斎の生みの親であり、育ての親でもあった。
啓蒙主義者である龍渓の考える新聞小説は、その後、寛の手で次々に花開いていく。
明治23年7月弦斎は初めて「郵便報知新聞」に「匿名投書」という小説を連載した。
この時から弦斎は「新聞小説家」として本格的に歩み始めた。
以後、「鉄欄干」「大洪水」「白鼠」と書き続けている。
「小説家」「近江聖人」「桜の御所」などを発表し、家庭小説の先駆的作品である「小猫」と長編「日の出島」(明治30年)で一躍人気作家となった。 

明治33年(37歳)7月、尾崎宇作と峯子の長女多嘉子と結婚する。

明治34年(38歳)、「新編百道楽の第一」として「釣道楽」の連載が始まり、明治35年、「猟道楽」「酒道楽」「女道楽」と続いた。

そして明治36年(40歳)、「食道楽」の連載が始まり大ブームとなった。
「食道楽」は六百数十種の和洋中のレシピが盛り込まれ単行本となるや爆発的な売れ行きを示した。

食道楽(上)の黒岩比佐子さんは解説で、
『連載中から、春夏秋冬の四巻の単行本が順次刊行春の巻はされると飛ぶような勢いで売れ、六ヶ月で三十版を記録し、この一巻だけで四万五千部以上、四巻では軽く十万部を超えた。』
『春の巻の売れ行きはすざましく、市場から本のカバー用の紙と綴じ糸が払底して、増刷が間に合わないほどだった。そのため、客から注文を受けた本屋の小僧たちは、出来上がった本が届くと取っ組み合いの喧嘩をして奪い合い、・・・』
と書いています。

つづく

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2008年7月 5日 (土)

食道楽が説く玉子の善悪(2)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

食道楽の玉子つながりで続けます。

食育のススメ(黒岩比佐子)」という本が食道楽を解説しています。、

鶏卵は早くから食べられていましたが、値段が高く、お歳暮の贈答品などにも使われていました。
当時の主婦にとって、鶏卵を買うときに「いかに新鮮なものを見分けるか」ということと、買ってから「いかに長期保存するか」は大問題でした。
卵の外観を見ただけでは、生みたてで新鮮なのか、腐りかけているのかがわかりません。
もちろん、一般家庭にはまだ冷蔵庫などはありません。日本に冷蔵庫が登場したのは、1903年(明治36年)の第五回内国勧業博覧会に出品されたのが最初だといわれています。
いまとは違って、当時は公的機関による食品の検査や、規格の設定などが整備されていませんでした。
そのため、不良品を売りつける悪徳商人もいれば、食品の安全や衛生に関する意識もお粗末なもので消費者は自分で食品の良否を判定して買うしかなかったのです。

毎日のように口にする食物が安全であるかどうかを、自分の責任で見分けなければならないのですから、頭の痛い事だったでしょう。
実際に、牛乳や酒に水を混ぜて売るという事件が起こっていたそうですし、水ならまだしも、有害物が混入したり、腐敗した物が堂々と売られていることもありました。
そういう状況だったため、弦斎は『食道楽』で食品の鑑定についてかなりのページを割いて説明しています。
その部分を今読むと、やや奇異な感じがするかもしれませんが、明治の女性たちにとっては切実な問題だったわけです。

黒岩比佐子さんは、ノンフィクションライター。2004年に「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)でサントリー文芸賞を受賞しています。
古書の森日記 by Hisako という、とても面白いブログを公開しています。
明治など近代文学について時代背景含めいろいろ教われます。

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2008年7月 3日 (木)

実は生卵は一年もつんですってよ、奥さん!!

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

昨日紹介した、多田富雄先生の仰る事を補完・実証する例が今日のブログにありました。

福島香織さんの「北京趣聞博客(ペキンコネタブログ)たまには軽いエントリー①卵の話し」 http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/629714/

■私「どうして、中国の卵って何ヶ月ももつんですか?日本の卵は賞味期限がせいぜい1カ月くらいでしょう?」
卵屋さん「卵、本当は半年くらい平気で持つんですよ。持たないのは日本の卵くらいです」
私「ええ??日本の卵は腐りやすい?」
卵屋さん「日本の卵は、洗浄してから市場に出すことが定められているんです。でも
中国や欧州は、鶏のおしりからでてきたそのままの卵を市場にだします。卵の表面は実は薄い膜でおおわれていて、洗浄しないと、その膜はついたまま。ですから中に空気も雑菌もはいりません。冷蔵庫にいれておくと、一年くらいはもつでしょう」

実は生卵は一年もつんですってよ、奥さん!!

■私「ではどうして、日本は卵を洗うんでしょう。洗わないほうが日持ちするのに」
卵屋さん「それは鶏のおしりから出てきたままだと、汚いから、雑菌だらけなんです。ですから
中国や欧州の生卵は表面はばっちいですよ。使うまえは30度くらいのお湯で洗ったほうがいいです。」
私「家の冷蔵庫に、去年2月から冷蔵庫に入れっぱなしの生卵があるんですけど、どうなっていると思います?」
卵屋さん「いや、雑菌が入っていなければ腐って真っ黒、ということにはならないと思いますよ」
私「じゃあ、こんど皆さんが家に遊びにきてくれたときに、わってみますね、楽しみ!」

kiyohikoの子供時代はどんなに古い玉子でも割ってみて黄身が崩れていなければ絶対大丈夫で平気で食べていました。賞味期限などありませんでしたし、自分で判断していました。最近も、といっても数年前ですが、期限切れから3ヶ月くらい経ったのを卵焼きにして食べたのを覚えていますが、旨かったですよ。

福島香織さんは産経新聞中国総局記者。レポートが素晴らしい。カテゴリー「食の安全学」に限らず素晴らしい。中国当局に睨まれて大丈夫かとシバシバ心配しますが。

mikoさんも、福島さんのこのエントリーを取り上げています。
http://miko.iza.ne.jp/blog/entry/630054/

mikoさん先生には「よくぞ書いてくれた」という記事をいつも紹介してもらって、目の鱗を落としてもらっています。私が青山繁晴さんの動画が見られるのはmikoさん先生のおかげです。

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2008年7月 1日 (火)

食育のルーツ・村井弦斎(1)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

食育という言葉の生みの親さぐりの2回目です。

食育のルーツは明治31年の石塚左玄と明治36年の村井弦斎の書籍にあるとされています。

今回は二人目の村井弦斎について調べます。

村井弦斎については、ウィキペディアにかなり詳しく出ています。先ずそちらをどうぞ。

村井弦斎(1864年~1927年)が書いた小説「食道楽」の第252章のタイトルがそのものズバリの「食育論」ですので、お読みください。この小説のヒロインはお登和、主人公が大原満で、お登和の兄中川と大原の友人小山が中心で展開する物語です。

第二百五十二 食育論

生活問題の人生に大切なるは今更の事にあらざれども世人はとかく迂闊に流れて人生の大本を忘るる事多し。小山も深く感動しけん。「お登和さん、私は学校にいた時分から他の人よりも余計に色々な智識を蓄える事が好きで、歴史上の智識でも文学上の智識でも科学上の智識でも頭へ詰め込む方でしたが今になってみるとまだまだ実用の智識は一向蓄えていない事を悟ります。これも一つは我が邦の教育法が間違っているから何事も実際には迂遠な人物ばかり出来るのですね。これからの子弟を教育するものはよほどその点に注意しなければなりません」 

お登和嬢 「さようでございますとも。私なんぞが女の癖に教育の事をかれこれ申しては生意気に亘りましょうが平生兄はこう申しております。今の世は頻りに体育論と智育論との争いがあるけれどもそれは程と加減によるので、知育と体育と徳育の三つは蛋白質と脂肪と澱粉のように程や加減を削って配合しなければならん。しかし先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊の至りだ。動物を飼ってみると何より先に食育の大切な事が解る。鶏を飼っても食物が悪ければ卵を沢山産まない。牛を飼っても食物が悪ければ牛乳の質が粗悪になる。馬を飼っても豚を飼っても食物の良否でその体質が変化する。人間もその通りで体格を善くしたければ筋骨を養うような食物を与えなければならず、脳髄を発達させたければ脳の栄養分となるべき食物を与えなければならん。体育の根源も食物にあるし、智育の根源も食物にある。してみると体育よりも智育よりも食育が大切ではないかとよくそう申します。ちっと風変りな議論かも知りませんが鶯を飼って好い声を出させようとすると大層食物を吟味して栄養の多い消化の速いような摺餌を与えます。人もその通りで善い智恵を出させようとするにはそれだけの食物を与えなければなりますまい。野菜を作っても肥やしが大切です。人も不衛生的な粗悪な食物ばかり食べていては身体も精神もともに発達しますまいから誰でもこれからは食育という事に注意しなければなりません。赤児を牛乳で育てる人は少し胃腸が悪くなると、オヤオヤこの子が下痢するよ、きっと牛乳屋で青草ばかり牛に食べさせるからだろう、牛乳屋に小言を言って遣ろうなんぞとその時分だけ食物の影響を知っていますが少し大きくなると大人同様の食物を与えて平気でいます。発達を過ぎた大人と発達盛りの小児とはよほど食物の配合を変えなければなりません。大人になっても毎日食物の影響を受けています。脳髄が発達して上等の人種になるほど食物の影響を鋭敏に受けます。ちょうど犬は腐った肉を食べても平気ですが人はそれを食べると胃腸を害するようなもので、高等の動物になるほど食物の影響に感じやすいのです。同じ人でも白痴と狂人は何を食べても滅多に中りません。それは神経を使わないから胃腸が無神経同様になって下等動物に近いのです。そう思うと何を食べても決して中らぬなんぞと自慢するのはあんまり自慢にもなりませんね」 と今の世にはいまだかかる自慢もありと見ゆ。

知育・徳育・体育の三育を基本としていたのが明治時代の教育だったのですが、弦斎はお登和の口を借りて、「食育」のほうがもっと大切だと主張しているわけです。

ここに一つの解説があります。http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080219bk02.htm

つづく

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2008年6月30日 (月)

食育のルーツ・石塚左玄

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

食育という言葉の生みの親をさぐります。

昨日書いたように、食育のルーツは明治31年の石塚左玄と明治36年の村井弦斎の書籍にあるとのことです。

石塚左玄については、ウィキペディアに詳しいので、詳細はそちらをご覧ください。

石塚左玄は福井県出身、嘉永4年(1851年)~明治42年(1909年)の人で、明治6年に医師と薬剤師の資格を取得し、陸軍の軍医、薬剤監となり少将になった人です。同時期の有名軍医に、軍医総監にまでなった文豪森鴎外(1862年~1922年)がいます。ちなみに鴎外は、きわめて優秀な人でありましたが、今ではビタミンB1欠乏症であるとわかっている脚気(かっけ)を、細菌による感染症との説を死ぬまで唱えた人でもあります。

石塚左玄は病気で苦しんだ事から「食」の研究をはじめた人で、栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱した日本の近代食養思想の先駆者です。

食医石塚左玄の食べもの健康法(農山漁村文化協会、1982.7)に記載の食養の系譜と題する表を見ると、20人の弟子が記載されています。その中に、谷干城・乃木希典の名も見えます。孫弟子になると有名な桜沢如一が出てきます。22人の孫弟子の中には、二木謙三、和辻哲郎、西端驥一といった名も見えます。ひまご弟子になると数え切れない数で、まさしく近代食養思想の祖であることがよくわかります。

石塚の食養学説は、食本主義、人類穀食動物論、身土不二、陰陽調和、一物全体食などが挙げられています。中でも、陰陽調和説が特徴だと思います。ナトリウムとカリウムに着目し、陽性のNa陰性のKとのバランスの取れた食が健康の基本とする考え方です。Naの多いものは、塩はもちろん、肉・卵・魚などの動物性食品、Kの多いものは野菜・果物の食物性食品となります。精白した米はKが少なくなるというので玄米を尊重したようです。

我々は、食味・食性と五味調和の理論を重要視するので石塚理論には少し違和感があるのですが、偉大な食養家としての評価に異論はありません。

石塚が明治29年に出した科学的食養長寿論の中に食育という言葉出てきます。
「嗚呼何ぞ学童を有する都会魚塩地の居住民は殊に家訓を厳にして、躰育智育才育は即ち食育なりと観念せざるや」と書いています。学童には、体育も智育も才育も全て食育である、という意味のようです。

石塚左玄の著書は、埼玉県内の公立図書館にはあまり置いてないようでしたが、国立保健医療科学院 研究情報センター図書館で閲覧できました。ここは医学関係の図書の宝庫です。埼玉県和光市にあるので、私には近くで助かります。

4月に、ここの疫学部長が発表した、高齢者は避けてほしいくすりのリスト が注目されました。

つづく

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2008年6月29日 (日)

6月が食育月間ってご存知でしたか

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

2005年には食育基本法が公布、2006年には食育推進基本計画(内閣府食育推進会議)が策定され、毎年6月を「食育月間」毎月19日を「食育の日」と定め食育推進運動の展開を求めています。

食育基本法の中では、「食育」を次のように位置づけています。(内閣府食育基本法パンフレット)

①生きるうえでの基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきもの。

②様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力」を習得し、健全な食生活を実践する事ができる人間を育てること。

日本薬剤師会雑誌18年7月号では

食育とは「食に関する知識」と「食を選択する力」を習得し、「健全な食生活を実践できる人間を育てる」ことであり、知育、徳育、体育の基礎となるべきものである。「食」の概念は幅広いものであり、食品のみならず、医薬品以外の摂取するものやその原料、食料の生産から消費までのプロセス、更には食事という行為までも含んでいると思われる。とあります。

食育情報発信基地「NPO法人こどもの森」によると、

この50年ほどの間に子どもたちを取り巻く地球環境は大きく変化し、お金さえあればいつでもどこでも好きな食べ物を買って食べることが出来るようになりました。しかし好きなものばかり食べていたのでは、自分の体を守ることは出来ません。食育とは、望ましい食生活がおくれる能力(元気な子への5つの能力)を幼児期に身につけさせようとするものです。

●食べ物を選択する能力

●料理する能力

●味が分かる能力

●食べ物の育ちを感じる能力

●元気な身体の分かる能力

これら5つの能力は幼い時からの毎日の繰り返しによって身についていくものです。そして体も心も元気一杯の子が育つよい環境に変えていくことは大人たちがしなければならないことです。

とあります。

教育ルネサンス・食育推進プロジェクトを展開している読売新聞には次の様に記してあります。

『子どもたちの健やかな成長のために、「知育」「徳育」「体育」とならんで正しい食の教育も必要な時代となりました』
『私たちは子どもの健やかな成長のために「正しい食の教育(食育)が重要課題である」と考えております。食生活の乱れが、心と身体を蝕み、学習意欲の低下、キレる子ども、学級崩壊など深刻な問題を引き起こしている原因であるとみられています。朝食を摂らない子、カルシウム不足、そして肥満による子どもの生活習慣病が多発し、今や社会問題になっています。』


食育・食生活指針の指導センター によると

食育[参考]
「食育」という言葉は、明治31年(1898年)石塚左玄が「通俗食物養生法」というほんの中で「今日、学童を持つ人は、体育も智育も才育もすべて食育にあると認識すべき。」と、明治36年(1903年)には報知新聞編集長であった村井弦斎が、連載していた人気小説「食道楽」の中だ「小児には徳育よりも、智育よりも、体育よりも、食育がさき。体育、徳育の根元も食育にある。」と記述しています。最近、「食育」という言葉が改めて広く聞かれるようになりましたが、そのルーツは大変古い物です。

とあります。

「食育」のルーツを探ってみたいと思います。

つづく

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