« 食道楽が説く玉子の善悪(2) | トップページ | 食育のルーツ村井弦斎(3) »

2008年7月 6日 (日)

食育のルーツ村井弦斎(2)

ふじみ野市 マサキ薬局の 漢方なブログです。健康情報を主体に書いて行きます。

食育の先駆者村井弦斎とはどんな人だったのでしょうか。

黒岩比佐子さんの「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)に詳しいので、その記載によってプロフィールを簡単にまとめてみます。

村井弦斎(本名寛 ゆたか)は1863(文久3)年12月18日、三河国吉田藩藩士で漢学者の家系の村井清と妻の勢以(せい)の長男として、豊橋(愛知県)に生まれた。
激動の幕末を経て村井一家三人は寛の学向修行目的で明治5年3月上京する。弦斎7歳の時である。
すぐに小学校に入学するが、学力のレベルがはるかに上を行っていたので半年余りで退学し、駿河台学校に入学しロシア語を学び始めた。その一方で一流の漢学者の許でも学び始めている。
明治6年11月東京外国語学校が開校すると、規定の13歳に満たないにもかかわらず魯語学(ロシア語学)に入学を許された。
最年少だったと思われる寛は、猛勉強の結果、明治11年3月には特待生として寄宿舎入りし、さらに翌年2月には主席になっている。

優秀な成績を収めた寛であったが過度の勉強がたたってか、16歳頃から健康を害して、しばしば学校を休むようになる。
明治14年2月病臥していた寛の父清の許に校長から出頭を求める書状が届く。
そして、卒業の見込みが立たないという理由で、寛の退校が言い渡された。卒業目前にしての事であった。
黒岩比佐子さんは、当時の良く使われた病名の脳病、今でいう欝病だったと推測しています。

日ならずして回復した寛は、北海道、東北地方へ半年にわたる調査旅行に出かける。
その後、明治17年8月に渡米、1年余り滞在して見聞を広め、明治18年9月無事に帰国する。

帰国後弦斎は報知社社長・矢野龍渓にその見識を見込まれて明治21年、報知社に入社する。
龍渓は「弦斎」という筆名の名付け親であると同時に、新聞小説家・村井弦斎の生みの親であり、育ての親でもあった。
啓蒙主義者である龍渓の考える新聞小説は、その後、寛の手で次々に花開いていく。
明治23年7月弦斎は初めて「郵便報知新聞」に「匿名投書」という小説を連載した。
この時から弦斎は「新聞小説家」として本格的に歩み始めた。
以後、「鉄欄干」「大洪水」「白鼠」と書き続けている。
「小説家」「近江聖人」「桜の御所」などを発表し、家庭小説の先駆的作品である「小猫」と長編「日の出島」(明治30年)で一躍人気作家となった。 

明治33年(37歳)7月、尾崎宇作と峯子の長女多嘉子と結婚する。

明治34年(38歳)、「新編百道楽の第一」として「釣道楽」の連載が始まり、明治35年、「猟道楽」「酒道楽」「女道楽」と続いた。

そして明治36年(40歳)、「食道楽」の連載が始まり大ブームとなった。
「食道楽」は六百数十種の和洋中のレシピが盛り込まれ単行本となるや爆発的な売れ行きを示した。

食道楽(上)の黒岩比佐子さんは解説で、
『連載中から、春夏秋冬の四巻の単行本が順次刊行春の巻はされると飛ぶような勢いで売れ、六ヶ月で三十版を記録し、この一巻だけで四万五千部以上、四巻では軽く十万部を超えた。』
『春の巻の売れ行きはすざましく、市場から本のカバー用の紙と綴じ糸が払底して、増刷が間に合わないほどだった。そのため、客から注文を受けた本屋の小僧たちは、出来上がった本が届くと取っ組み合いの喧嘩をして奪い合い、・・・』
と書いています。

つづく

|

« 食道楽が説く玉子の善悪(2) | トップページ | 食育のルーツ村井弦斎(3) »

食育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 食育のルーツ村井弦斎(2):

« 食道楽が説く玉子の善悪(2) | トップページ | 食育のルーツ村井弦斎(3) »